2012/07/01

マリオ・ジャコメッリのいた町


凝視は細部の発見をもたらすと同時に、全体像の崩壊にいたることもしばしばある。凝視による文字の崩壊などは、だれしもが経験ずみのことだろう。たとえば漢字をじっと見つめていると、直感的に理解できていたその意味が不明になり、見知らぬ記号あるいは模様となってしまうことがある。あるジャンルの写真はそれをめざしているのかもしれない。自明である日常の崩壊を。
敬愛する写真家のひとりにイタリアのマリオ・ジャコメッリ (Mario Giacomelli, 1925-2000) がいる。アドリア海に面したイタリア北東部の小さな町セニガリア(Senigallia)に生まれ、その町で暮らしながら写真を撮り続けた。


そこに登場するのは、多くが彼の家族であり、友人であり、町の人々だ。20世紀のイタリアを代表する写真家のひとりでありながら、ジャコメッリは町の印刷会社や雑貨屋、キャンプ場を切り盛りすることで生計を立て、生涯を通じてアマチュアという立場を貫いている。写真は生活の手段ではなく、彼の生き方そのものだったのだろう。すなわち、写真は彼の目であり、凝視そのものだった。

コントラストの強いモノクロ写真が彼の技法的特徴であり、そこに現われるのは海辺の町の、貧しく慎ましやかな、それでいて大地に根を張った人々の生の姿だ。ときには耕された大地や静物などが映しだされていたりする、それらもまたゲニウス・ロキを感じさせるに充分だ。

修道服なのか、黒く長い詰襟服を着た男たちが、手をつなぎ円を描いて踊る姿を空中から撮影した写真がある。背景は真っ白にとんで、男たちは中空で踊り続ける、いくぶんお調子者の精霊のようでもある。あくまで生活に根ざしたもの、日常そのものに目を向けながら、印画紙にあらわれた世界は日常を打ち破り、不思議な幻想性をたたえている。そこには凝視による細部の発見と全体像の崩壊の果てに、ジャコメッリが発見した独自の空間があったのかもしれない。

イタリアという土地は、ときとしてこうした日常の抽象化をおこなって、他に類を見ない世界をつくりあげる。

■関連本
The Black is Waiting for the White
Mario Giacomelli: No Hands to Carress
マリオ・ジャコメッリ(完全日本語版)
私とマリオ・ジャコメッリ―「生」と「死」のあわいを見つめて

   

0 件のコメント:

コメントを投稿