2011/11/17

ヴォイナロヴィッチ:性 1

戦争の惨劇が表現のリソースとなるように、1980年代以降、エイズもまた数多くの表現を生みだしてきた。戦争とエイズに通底するものがあるとすれば、それらが内包する破壊衝動とでもいうべきものだろう。一方で、エイズに関わる写真表現によって、写真自体がはじめて日常生活の深部に到達したという見方も可能だ。なぜなら、エイズは日常生活のなかの過酷な死を、報道ではなく表現者がその当事者として体験・記録しはじめた大きな出来事であるからだ。

異質なセクシュアリティに向けられた社会の視線は、冷酷なものがある。排除されることで性的マイノリティの内部では親密さと穏やかさが醸成され、同時に社会的なものの破壊というポテンシャルを宿すことになる。
日本における知名度はけっして高いとはいえないが、デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ(David Wojnarowicz, 1954-92) は、現代美術においてきわめて重要な存在である。
彼は写真から絵画、フィルム、インスタレーション、さらには著作活動と幅広い表現を行なったアーティストで、その内容もカルトゥーンのようなものからシリアスな写真まで多岐にわたっている。彼のなかの壊れてしまいそうな繊細な神経と、同時に社会に対する破壊衝動のようなものが、時や場所を選ばずにあちこちで形を変えて噴出しているのだろう。

ヴォイナロヴィッチのなかにはバスキアがいてシリル・コラールがいて、ときにリキテンシュタインがいたりする。その輻輳性はすなわち自身のなかの多重性であり、ジョエル=ピーター・ウィトキン(Joel-Peter Witkin,1939-)が撮った『接吻』の写真に浮かびあがる鏡像関係を思わせる。ただし、ヴォイナロヴィッチの作品は、より社会的であり、より切ないのだが。 (つづく)


■関連本

David Wojnarowicz: A Definitive History of Five or Six Years on the Lower East Side (Semiotext(e) / Native Agents)


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