2010/08/19

アヴェドン 私小説的肖像 2


多木浩二は「肖像写真」のなかで、はじめてアヴェドンの写真に興味をもったのはシチリアのノトで撮った少年の写真(Noto, Sicily, September 5th, 1947)だと明かしている。多木はこの写真について書いた文章を引用する。

画面はほとんど空白であり、ぼけてはいるが、たぶん刈り込まれて四角くなった木が一本、立っているだけ。その前方に一人の少年が肩をいからせ、胸を膨らませるようにして立っている。
 多木はこの写真についてさらに言及し、あまりにも白く、空虚な背景に、未来が見えないまま勢い込んでいる少年の姿を重ねあわせている。同時に、のちにアヴェドンが撮ることになる数多くの肖像写真の原型をここに見ている。

はからずも私も同じ体験をしている。はじめてアヴェドンに関心をもったのは、この写真を目にしたときからだ。ただ私の場合はすこし違った。この写真から連想したのは牛腸茂雄が自身を映したポートレート(右写真)だ。

そっけないコンクリートの部屋で窓辺に立つ牛腸も、肩をいからせるようなやや不自然な姿勢で立っている。牛腸の場合は子供の頃に胸椎カリエスを患ったためにこういう姿勢なのだが、画面の空虚さとそこに小さく写った牛腸との同調性が頭に浮かんだ。牛腸は私写真を撮り続け、アヴェドンは肖像写真を撮り続けた。人へのこだわり、自身への視線、その私小説的ともいえる資質もまた、私のなかではどこか共通するものがあった。微妙な明るさと陰りが彼らの写真に宿っている。微妙な明るさとは背景の空虚さであり、陰りは被写体にある。だが、空虚さが被写体の生ともいうべきものを逆照射しているのもたしかだ。 (つづく)


* 肖像写真―時代のまなざし (岩波新書)

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